ところで、金融業界はかつて、多くの都市銀行と政府系銀行があり、証券、損保、生保という構成だった。しかし、都市銀行は金融ビッグバンやバブル崩壊の影響で、3つのメガバンクに集約され、政府系銀行や生保の多くは破綻した。現在は東大出身者が役員数でトップになっているが、これはみずほ銀行で東大出身が多いことによる。世代交代していくので、あと10年もすれば、慶應が全体の4-5割を占めることになると予測される。これは、慶應出身者が財界人やオーナー企業の子弟も多く、東大よりも、知的な能力や語学力、バイタリティ、体力など全般的な評価をすると、優位な人材を輩出していくだろうと考えられるからである。また、出身大学を問わず、実業界で経営層になった人物、富裕層は子弟を慶應に入れたがる。富裕層がどの程度いるか、はっきりしないが、富裕層を親族に持つ人のアドバンテージは否定できない。金融業界で業績を上げるとして、何も頼む先がない人と、親族に頼めばどうにでもなるという人とでは大差が出る。

総合商社も東大と慶應が拮抗しているようだが、商社では、英語圏の仕事はほとんど帰国子女が担っているという。ネットワークもあるのだろう。帰国子女入学には上智が熱心だったが、90年代以降、慶應は帰国子女枠を大幅に増やしている。帰国子女に、東大の重量級入試は難しい。慶應はその意味で優位に立つと思われる。早大も熱心だが、内部できちんと学べるようには、残念ながらなっていない。また、GMARCHと総称される有名私学の出身者も、総合商社の役員には現状、一人も送り出せていない。もし活躍する人材を出せるとしても、相当先のことである。また、東京外大、大阪外大(現在は大阪大)も、商社には多い。しかし、マイナーな言語圏の専門家になるためか、経営層にはほとんどいない。

最後に、慶應藤沢についてである。慶應藤沢の構想は、80年代、当時の塾長、石川忠雄氏の発案で始まった。将来の慶應義塾のプレゼンスを高めるためには、まず、ミニ東大化を避けること、また、従来の三田の学部学科の改組による規模拡大は行わないこと、さらに、従来になかった、全く新しい名称とプログラム、カリキュラムを持った大学とすること、1学部800名規模とし、2学部にして1600名規模で設置すること、設置場所は従来のキャンパス以外の場所とすること。などが方針として示された。しかし、すぐに適当な名称を想起することができず、公政学部、社会管理学部などの名称が取り沙汰されたこともある。

最終的には、文学部教授だった井関利明先生(経済社会学)の発案で、総合政策学部と環境情報学部という名称が打ち出された。実に画期的なことである。現在でもそうだが、経済政策と法律学とはクロスオーバーする。広い意味での法学、政治学と経済学を基礎として国家社会の変革に向けた政策立案は本来、学部学科として設置されていてもよかったものである。しかし、この時、初めて、それが名称となった。そして、当初は、各学部に3つの学科を置くことになっていた。

そのいきさつは、三田評論のバックナンバーに詳しいが、公共政策学科、国際政策・地域研究学科、組織・管理学科のような感じのものだったと記憶する。このような学科が想定されたのは、三田の各学部がスタッフを送り出せるようにしたいという思惑もあったからだろう。総合政策学部は当初、その付与する学位を「政治学士」にしていた。経済政策と地域圏研究を重点に置く腹積もりだったのだろう。

他方、理工学部も新設学部には関心を寄せ、情報科学の権威、大御所である相磯秀夫氏が中心になり、環境情報学部の構想に参画した。当初は、慶應の理工学部にない建築系の学科を作るという意見もあり、また、環境デザイン学科や、メディア情報学科などのような名称も出ていた。結果的に流れたのだが、環境デザインというと、芸大の産業デザインなどに近いものとなり、ビジネスリーダーを送り出してきた慶應に設置されるべきだろうか、疑問視された。環境情報学部の学士は当初、社会科学士だった。

最終的には、経済学、政治学、社会学などを基礎とする総合政策と地域研究を行なう総合政策学部、情報システム、ネットワーク技術、その他文理融合のメディア研究を行なう環境情報学部となった。学科は1つとされ、適宜、コースを設けることになった。

環境情報学部は、日本における社会学の巨匠、富永健一、日本における精神分析の嚆矢で、精神分析医でフロイト研究の泰斗、小此木啓吾、戦後日本の文壇のドンの一人、江藤淳等を迎え、先進的な情報システム系のカリキュラムに加えて、人文系でも屈指のスタッフを揃えた。総合政策学部は、東大教養学部で流産した「政策科学コース」のスタッフが多く移籍し、三田からも看板教授が先んじて移り、慶應出身ながら他大学に残り、実績のある人材が招聘された。そのスタッフの専門性を考えると、系統だった印象はなかったが、文字通り、素晴らしい陣容でスタートした。しかし、当初の予定と異なったのは定員規模が各学部400名で認可されたので、合計800名と当初計画の半分でスタートせざるを得なかったことである。そのため、収益面など予定が狂った。

90年代のSFCは優秀な卒業生を数多く輩出したが、独特の価値観が刷り込まれていて使いにくいとか、すぐに会社を辞めてしまうという悪評判もあった。開学して数年間、三田の学部に受かっても、藤沢を選ぶ学生が多かったようだし、一橋や東工大を蹴って藤沢という学生もいた。また、環境情報学部は情報システム系で、幅広く学べるということで、早大理工、慶應理工と併願し、環境情報学部を選ぶという受験生もかなりいた。しかし、英語または数学、+小論文という1科目入試の方式は開学以来、変更されることはなく、今日に至っている。

早大人間科学部は、文系入試(英語+国語+選択科目で地歴か数学)、理系入試(英語+数学+理科)を実施している。京大も教育学部などいくつかの学部で実施している。しかし、藤沢は、入試の方式に関しては開学して20年間、ほぼ一貫している。

藤沢に関してはテコ入れすべきだという意見が三田でもあるが、藤沢内部にも根強い。1つは、週刊誌でも取り上げられた進路未決定者の多さで、半分程度が卒業後、就職していないというのだ。この点につき、環境情報学部長の熊坂賢治氏(専門は社会学)は、進路未決定者の中に海外に留学しようと準備している者も多いので、長い目で見てほしいということだった。

ちなみに、東大の進路決定率は65%で、特に文学部、教育学部、農学部では深刻な水準だという。これは基準年の全体平均55%と比べて多少高い程度で、東大卒業生の3分の1が行方不明になっていることを意味する。一方、慶應三田の各学部は、文学部(特に男子)を除くと、日吉から三田に進学すると、迅速かつ徹底的に就活を行ない、就職状況、就職率は他大学の追随を許さない。かといって、大学側は就職活動の支援は一切、行なっていない。すべて自発的に行われているものだ。

実は地方の旧帝大でも文学部、教育学部の進路決定率は深刻な状況で、九大の場合、文と教育から名だたる企業に就職した者はほぼ皆無なのである。これは今に始まったことではないようで、私のクライアントの人事部長は京大文学部出身だが、当時、女子学生は一人として就職できた人がいないと言ってよい状況で、縁故で地方の商工会議所に入った人が一人いた程度だったと述懐する。

昔から文学部に対する偏見と差別はあった。これは、1つに文学部進学者の学力が低いということがあった。というのも、旧制高校から基本的に帝国大学(=東大)は全入だったが、それは文学部で、法学部は一定の成績を上げて推薦を受けるか、入試を受けるようになっていた。文学部からは官界、財界へもほぼ途が閉されていた。可能な進路は、マスコミで、新聞社、放送局、広告、出版、あるいは、研究者、教職員だった。かつて東大は法学部と経済学部に進む文科Ⅰ類と文学部に進む文科Ⅱ類で入試を行なっていたが、その差は非常に大きかったそうである。

また、京大文学部のOBの方に話を聞くと、入試でも、また学内における地位も文学部は低くなかったが、一般社会からは左翼の巣窟と見られていたという。マルクス主義を学ぶには本来、経済学部になるのだが、文学部は学生運動の拠点とみなされていたという。

大阪大学には、文学部と、非常にスタッフの充実した人間科学部がある。しかし、阪大の卒業生の活躍は、①医学部、②工学部、③経済学部、といった感じで、文学部と人間科学部の卒業生で、実業界等で活躍している、あるいは著名な文化人という人は全くいない。彼らはどこに行ったのだろうか。それは、東北、九州の文学部も同じである。

慶應の総合政策学部の最初の卒業生はようやく45歳くらいである。既に頭角を現している有能な経営者も出てきていることは喜ばしいことだ。しかし、実質的に一心同体の環境情報学部はどうなっているのだろうか。環境情報学部では、人文系、社会科学系は傍系と位置づけ、近年は山形県にもキャンパスを擁し、バイオやゲノムの研究で成果を上げつつある。学部長も務める富田氏は、カーネギーメロン大学で情報科学の博士号を取り、帰国してSFCの教員になったが、その後、医学博士を取得し、医学部との共同研究を展開、世界的な研究を行なっている。そこから、渡米し、米国の有名大学でバイオやゲノムなどの研究をしている卒業生も出てきている。

もちろん、期待されるところだが、理学部、工学部の体裁になく、理科系の学力をしっかりと行える体制にない藤沢で、どこまで理工系の人材が送り出せるか、懸念がある。思い切って、理科系学部として仕切り直したほうがよいのではないかと思う。